「キスして」
聖は唐突にそんなことを言ってきて。それはもう本当に突然だったものだから、私はいつものように軽口でかわすことすら出来ずに思い切り固まってしまった。
「聞いてる?蓉子チャン」
笑いを含む声。じわじわと金縛りが溶けていくのと共に顔に血液が集まってきて。 熱い。逃げたい。
自分の欲求に素直に体は後退りを始め出す。聖があっさりと逃がしてくれる訳が無い。自分でも、分かってはいるのに。
少しずつ少しずつ広げた間合いを、聖は一歩で詰めてしまう。どアップにドキドキ、なんて付き合って何年経つと思っているのよ、しっかりしなさい水野蓉子。思考だけがくるくると回る。空回って滑っているだけのような気も、する。
にっこり笑った聖(悔しいけれど、私の大好きな表情)は、おでこ同士がくっつくくらいに顔を寄せて来て。頬を包みこまれると私はもう逃げられない。
「どう、して」
やっと声が出た。そう、それが一番の問題。 キスが嫌な訳じゃない。嫌じゃないけれど。なぜ私からなのか。
「今更、それを聞く?」
ちょっとだけ不服そうな顔。でもきちんと両手は離してくれた。それは嬉しいのだけれど、返事になっていないって気づいてくれているのかしら? 表情を読み取りでもしたのか、聖はまた笑みをこぼしながら。
「ほら、今日は何の日?」
変化球が飛んで来た。
「3月…14日、だけど」
何かあったかしら?年度末決算は近いけれどお互いの誕生日でも記念日でもないはず。
「じゃさ、連想ゲーム。2月14日は?」
「え?バレンタインデー…………って、あ」
「ご名答〜。私、蓉子からお返しもらってないよ」
「あげたじゃない」
バレンタイン、当日に。自分でもロマンチストかなと思ったけれど白いリボンをかけたビターチョコにマフラーを沿えて。付け加えるなら一緒に住んでいる中で気づかれずにマフラーを編むのは死ぬほど大変だった。だからというわけではないけれど忘れるわけないじゃないの。
「だからぁ、バレンタインの、お返し」
赤面していた分の血液が脳に送られたのかもしれない。聖の再三の要求でようやく話が飲み込めてきた。 …これはつまり。自分がバレンタインにあげた分を今日返せ、と。…そういう、ことなのだろうか……?
そんなこと言われても正直何も用意していなかった。ゆっくりとまた聖は近づいてきて。
「キスでいいから」
耳元で囁かれて体が震える。
「『でいい』ならしないわ」
目を反らして見えた掛け時計は3時。 後は聖の服。手。唇。
「キスがいい」
くつくつと笑う声は反則。あと5cmまで近づいている聖との距離。
どうにかして。そう思うけれどどうにか出来るのは生憎私しかいない。
しょうがないから、ぎゅっと目を閉じて首に手を回して聖を自分の方に引き寄せる。
「……………」
掠めただけのキス。それでも、いや寧ろ、だからこそ恥ずかしくて。
「…聖もお返し、してないじゃない」
私も大概素直じゃない。
また耳朶の近くで笑い声が聞こえて。
お返しのキスは無言で落とされた。
蛇足しておくと、私のお返しよりずっと長いキスだった。
ハッピィホワイトディ。
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