「もう、知らないわよ!」

人目を憚らず大声を出したのなんて久しぶりじゃないか、ついでに出かけた平手はぐっと押し留めて私はそのままばたんとドアを閉めた。乱暴に鍵をかけきびすを返す。

「蓉子!」

扉と廊下越しに聞こえる声にも、聞こえない振りをした。









ハッピーバレンタイン












……大体朝帰りなんて、どういうつもりなのだろう。まあ今に始まったことではない、約束でもしない限り聖の帰宅はすごく早いかすごく遅いかのどちらかだ。けれど行事の時くらいは。せめて日付の内には帰ってこられないものだろうか。
昨夜、グラスだけ机において、ずっと考えていたことが思い返される。怒れるとか寂しいとかそんなことより、一番湧き上がっていたのは悔しさだった。これは聖に対して諦めていた部分のはずだった。束縛したくない、だから良いのだと思っていたはずだった。
「それくらいは」守れるはずだった私は昨日たった1日のことで随分と単純に駄目になってしまった。


はあ、とため息は多分自分のせい、昨夜抱えていたのとは色違いのクッションを握りしめる。蓉子が赤なら白にしようかな、店の中で耳にふきかけるように言うものだから私は、汚れるわよ、などとにべも無く否定してしまった。だから青い。いつか高等部の理科準備室に隠れていた聖を叩き起こしに行った(劇薬があるような教室にいたら流石に怒られる、)時に見た何かの薬品に似た鮮やかな色。硫酸銅、だったろうか、聖は無頓着に伸びなどするものだから棚にぶつかるのでは無いかと私は少し心配していたのだ。多分棚には触れなかった手はそのまま私の手を掴んで、そして、


「……だからなんで聖が出てくるのよ……」


ぼすりと陥落。日なたの匂いなんか勿論ちっともしなくて、さっきまでの夜が染み込んでいるみたいで、絞り取ってしまう程腕に力をこめる。いつだって聖にいいようにされる私の腕力、つぶれるだけで後はただ綿の感触。息苦しいままもう一呼吸置いた後で私は顔をあげ言葉を失った。


「……ただいま、蓉子」


あまりに普通に、そして微かに心配そうに、言うものだから。


「うわっ!?」

「何してるのよ!」


咄嗟にクッションは抱えたまま両手を押し出して聖を遠ざける。

下から見上げるように私を見ていた彼女はそのままぺたんと尻餅をつく。丸い瞳、コートもマフラーも身につけたまま、すぐに私の方を向き直って見つめ直してくる。ただ呆気に取られていた私の判断力はかなりお粗末で。ここは聖の家でも有るのだから、当然聖だって鍵は持っているはずなのにまるで魔法にかかったかのように動けなかった。

……王子様の口付けでなら目覚めるのかしら。
何が夢なのか、そして覚めたらどうなるのか、後から思えば赤面を通り越し呆れ返るような思考。
シナプスは切れ切れで、ぼんやり彼女の顔が手が近づいて来て。



「……きゃあ!」



……再びしてしまう、過剰反応。
今度こそ聖は驚いた顔。今更ながらに私の心臓は早鐘を打ち始める。不思議なことに頭の回路は漸く繋がってきた。唇は重ならなかったけれど、自分の悲鳴は中々に冷や水代わりになったらしい。

取り敢えず聖の腕を掴んで隣に座らせる。横向きで向かい合わせになって、これでいつもの申し開き。青色は手渡して、自分の赤は背中に挟んで。もう一度息を吸い込んで吐き出して。にこり、うまく笑えていたかどうかは分からない。





聖は私がどきりとするくらい真剣に話し出した。長引いたゼミ、暫く教壇から離れる教授との話し込み、レポートの期限。この頃の聖が忙しいのは知っていた、けれど私も暇な訳ではなかったから、初めて耳にすることも多かった。淡々と進む事実は何かずっと昔の思い出を聞いているような心境で流れて行き、そして私は唐突に最近聖を抱きしめていないことに気づく。数少ないスキンシップはいつも聖からだ。……失念していたわ。そんな言葉で許されるのかしら。私が自分に怯えている間に聖の話は飛び火していく。

小銭足りなくて、終電も無くて。そんなコントのような、いや、事実普段なら間違いなく茶化して言われる言葉。瞳が近いか、或いは聖の腕の中か。暖かくてけれど恥ずかしくてどうしようもなくなっているときに降ってくるはずの告白は今私に真っ直ぐに落ちてくる。一直線過ぎて怖くなる。蓉子、名前を呼ばれるだけで、何かの原液を飲まされているかのように、むせ返るように苦しい。



「……ごめんなさい」



謝罪は唐突に、落ちた。

ブレーカーが落ちたのは聖、落としたのは私。3度に渡って途中で遮られ、流石に彼女も不審な目を向けてきたはずだ。けれど私は聖の顔など見れなかった。代わりに目をやったのが去年の昨日あげたものだと認識した途端顔が熱くなる。私は気づいてしまった。
気づいてしまった。これはただのわがままだと。いつも授業をサボったと聞けば咎め付き合いをことごとく断っていたときはやんわりと注意してきた。それなのにいざ立場が逆転すると、寂しくて、そしてそれを悔しさが上回ってしまった。忘れてない、私が初めて聖に手をあげたときは栞さんの話題、二番目は仕事とどちらが大事なの、というお決まりの言葉を言われたときだ。今朝玄関を開けたときのように押し留めてきた些事は数え切れないくらいあるけれど、どうにもとまらなかったのはその二回。
自分のそばに聖がいないことよりも誰かの側にいるかもしれないことを、そして渡せなかったプレゼントよりそれを買ったときの自分の気持ちが、悔しい、と思ってしまった。
……自分が嫌になる。


「……謝られるだけじゃ、わからないよ」


字面と裏腹に抑揚は、息を呑んでしまう程穏やかだった。やっぱり今日は普段と逆転している気がする。こんなに優しい言葉を、私は持っていたのかは分からないけれど。甘えたくなった。今聖を見てしまったら私もきっとこの抱えていた感情まで全部話さなければいけなくなる。だから。


「……バレンタイン、おめでとう」


さっきの私の分身のように、ワインレッドの紙袋を聖に押し付ける。早めに選んだ市販品に、少しの手作りを添えて。ぎゅうと完全に聖の体と私の手にプレスされてしまうまで。箱詰めにしておいてよかったと、私は馬鹿みたいなところに安心する。まだ本調子にはなれていないのかも、しれない。

聖の方は見ない。甘えるのは少しだけ、そう、ほんの少しだから許して、と。言い訳めいた呟き。震える指先は気のせい、聖の腕がいつもよりずっと暖かな気がするのも、気のせい。


「ん、ありがと」


そして、私からも謝らせて?


くるっとひっくり返され背中に当たるのはクッションでもソファの背でも無くなって。しゅるり、解かれたのは彼女のマフラー、それから私の何か。あの焦燥感からの息苦しさは消えたはずなのに呼吸し辛い。むせるように嗚咽をこらえた。



そして、これ買ってたらタクシー代なくなっちゃって、といつもの口調に戻った聖からのプレゼント片手に、私は人生3度目の平手打ちを聖に食らわせることになる。