空に 手を 伸ば し て
鳥を見送った
行ってしまった青い鳥は もう 戻ってこない
BLUE BIRD
「ねえ、幸せって何だと思う?」
こんな陳腐な質問をしてみた元々は気まぐれと思いつき、それからほんの少しの好奇心だった。水飴のようにどろどろに溶けて纏わりついてくる日常に。振り払うのは億劫、呑み込まれていくのは不快で。
目を細めると僅か、世界が揺れる。
聖はポカンと口を開けて固まって。まるで石像の様。こんな形で固められたら可哀想だがさぞかし楽しませてくれるだろう、そんな表情をしている。
「…でこちん、拾い食いでもしたの?」
人間に戻った聖がまずされたことは私のボディーブローを一発食らうことだった。思いの他しっかりと決まってしまいこれまた珍しく聖はずるずると崩折れた。常識的な聖はそれだけで意外性があるけれど、残念ながら私の興味には合致していない。本当に、残念。
「ゴロンタじゃあるまいし、するわけないじゃない。大丈夫なのかしら、白薔薇さま?」
皮肉に聞こえないように声をかけるのが一番の皮肉。案の定きゅっと寄せられた眉根。この方がなんだかより聖らしい。笑ったら意図せずして油を注いでしまった。
怒るというよりは不貞腐れている様子を横目で眺める。目の端に滲む笑いの残滓。
それが益々歪な視界を作り出して、億劫と不快を私は天秤にかけて不快に軍杯があがった。指の先で掬う。
ぺろりと舐めると薄い味。不味い。
「別にいいわ。暇だっただけ」
なんとも自分らしい台詞ではないか。とって付けたような、いや、事実とってつけたことにこの友は気づいている。何も言わない。安心感とほんの少しのむず痒さ。
仕様がないから書類という名の紙に目を落としてみる。ポキリと折れるシャープペンシルの先端。
「じゃ、出掛ける?」
バサリとプリーツの翻る音。目を向けると悪戯っ子の笑み。
「…どこに」
私は意外に不意打ちに弱いのかもしれない。
「青い鳥を探しに、さ」
差し出された手を反射的に取ってしまった。その恭しさがほんの僅か、気に障って。
引っ張られて走り出す直前までは毒づく台詞を頭の中でシュミレート。
二大候補で迷っている間に私達はビスケット扉を通り抜けていた。
*
「……で、何処に行くつもりだったのよ」
結局、言葉は質問に取って変わった。
「うーん……」
きょろきょろと辺りを見回しながら首をすくめてみせる。全く、聖は妙なところで器用だ。
「ま、いいじゃない。休憩」
空気がふわりとしていてこのまま飛んで行けそうな錯覚。腰をおろした聖の背中は透き通っているよう。消えないでなんて思わない、決めたらどうせ彼女は未練も余韻も残さず消えてしまうのだから。かがんで当てつけのように草を引き千切るとツンと匂った。唐突に、現実。
「よくないわよ、校舎外まで来て」
セオリー通りの応答をする。この世に会話のパターン等、きっと計算可能な程しか無い。
「江利子、蓉子みたいだ」
ふと見せる微笑み。何も今、出す話題でもないだろうに。
聖の幸せの中には蓉子がいて蓉子の中にも聖がいる。二人で手を繋いできっと私にも片手を差し出してくれる。でも、それだけ。
さっき取られた手の温もりが急速に冷めていった。
「似てないわよ」
無いものねだりはしない主義なの。
私がいなくても世界は回っていけるのだから。
見上げた青は眩しくて一筋の雲が霞んで見える。目に染みる、漂白される。
私はひとり、馬鹿みたいに晴れ渡る空に背を向けて歩き出した。
照りつける陽射しをアイボリーは実によく吸収してくれて何だか全てが馬鹿馬鹿しくなる。
帰ろう。
そう、思った。
*
ペタペタペタ
間抜けな音が静かに跳ね返る。
私の2歩半後を歩く聖の顔は見えない。振り返っていたら誰もいないのかも知れない。上履きだけが残されていたりして。
確かめるのも面倒なのでそのままにして、李組の前をすり抜けるように歩を進める。他人のいない校舎は自分だけに優しい。
二人だけの校舎は一体どちらに優しいのかしら?
どちら、の視点を想定する所で私は考えるのをやめた。途中で思考を切るのが最近上達したように思う。
閉め切られた窓に躍る木のまだら。中途半端な鏡に映る自分の方はいかにも退屈そうな顔。
擬人化した校舎の床を爪先で弾く。軽く蹴りつけてそれから立ち止まった。澱んだ空気。
後ろの足音もぴたりと止まって。
いよいよ私はひとりきりになった。
暑い。
陽に焼かれるのと蒸し焼きになるのとでは、どちらが楽だろう。今日は二者択一の選択肢が多いとふと思って。
今までと同じように答えを保留にして片隅に追いやった。
遠くから、部活動の掛け声が聞こえる。
*
「気は済んだ?」
一瞬、隣に聖がいることを本気で忘れていた。血が集まろうと蠢くかのように、ざあ、と耳鳴り。その余韻もすぐに消える。
殊更ゆっくりと振り向く。指2本程透けていそうな聖。じろじろと無遠慮に見る。羽根は無い。多分聖なら、飛ぶよりも溶けこむように消えて行くのだ。
「じゃ、捕獲しに行きますか。青い鳥を」
無言をどう捉えたのか聖は飄々と続ける。幸せはいつも近くにあるんだけど一度出かけてみないと見つけられないんだ、だってそういうものでしょ?
「何を無邪気に信じてんのよ、令じゃあるまいし」
令のところを蓉子に、心の中で置き換える。分かっているけど認めたくない。
水飴はぽたぽたと垂れながら廊下を濡らす。涙どころか吐息すら乾いている湿った回廊で、私は無性に泣きたくなってしまう。
「馬鹿ね、青い鳥なんていないのよ」
鳥は青空を突き抜けて飛んでいくの。痕跡を綺麗に消し去って。
手を振り払ったのは私。聖は消えていかずに他の人の手を取った。それだけ。
帰ると決めたとき、無意識のうちに薔薇の館を選択しなかった意味が漸く理解できた気がした。
聖の気配を感じないでいられる自分に安堵して私は目を閉じる。
もう少しだけ、ひとりきりでいたかった。
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