溺 れ る
君は、馬鹿だよ。
そう告げたときの、君の顔は綺麗だった。整ってて気丈な瞳も真っ直ぐで綺麗という形容詞しか頭には浮かばなかった。更に本当のことを言わせて貰えるなら、最初はそれすら浮かばず頭の中は真っ白になっていた。雪の降った朝みたいに。クリアな癖に息は白くて綺麗だから切なくて一瞬躊躇した後に駆け出すんだ。自分の足跡をつけて、汚す。
でも君は何も言わなかった。しなかった。そのままで、ただ私の重みを堪えていた。君は勿論雪よりずっと暖かい体温を纏っていて、受けとめてくれた腕にもしっかり血は通っていた。なみなみと注がれてまるで零れ落ちそうなくらい。鼻を擦り寄せた肌からは柑橘系の匂いが仄かに、した。
昔行った蜜柑畑は広くて丘陵に沿うようにあって、そこで私はひとつだけはっさくをもいだ。どれでもいいよと言われたから仕方なしにひとつ手を伸ばした先にちょうどあった黄色い実。分厚い皮の感触を私は思い出して、その先にあるものめがけてかぶりついた。眼前でひゅうと息が通り過ぎて存外甘かった味と一緒に飲み下す。貰った麦わら帽子を被る気にはなれなくて手持ちぶさたにひっかけていた指先は、いつの間にかもっとずっと大きくなった。爪が果肉をえぐる。私にも少し染みている。
それでも君はその綺麗な目を薄く開けたままで、私を見ていたんだ。言葉は必要なかった。或いはもしかしたら必要だったのかもしれなかったけど出てこなかった。君が喉を鳴らすとそこで何かはつっかえてしまう。笑顔は眩しすぎたから私の方が目を閉じてしまった。いつか雪を踏みながらはっさくを抱えながらそうしたように。
気がつくと私は指先まで冷たくなっててさ。慌てて目を開けるんだ。見開かれた目の中に君が映ってすぐに見えなくなっていく。砂糖菓子みたいに溶けていく。手を伸ばすけれど遠近法も滅茶苦茶でね、ぐしゃぐしゃと髪までばらまかれるともうどうしようもなくなってしまうんだ。綺麗だったのにって、自分が触っただけで君の綺麗さが消える訳じゃないのに私の上にズンとのしかかる。不可逆なものを前にするとさ、無性に哀しくなるじゃない。多分、あんな感じでね。
私は君に撫でられてやっと自分の存在を認識していたんだ。そう、多分、でも、間違いなく。君になぞられた輪郭は確かなものに思えてさ。それが不思議で、その指を咥えてみたらぴくりと震えた。繊細で可愛くて舐めてたらこのまま噛み切れちゃいそうに思えてきた。ちょっと強く、果汁を絞るようにしたらまた君の喉が鳴った。
君は、馬鹿だよ。なんて、酷い言葉。私は本気みたいに本気の言葉を言うからいけないんだ。ひゃくぱーせんとなんて重すぎて自分ですら持っていられないのに。綺麗と同じくらい、馬鹿もストレートな言葉。積もって積もって雪が降る。耐えきれなくて落ちてくる。それなのに君は全部受けとめちゃってさ、表面上では平気な顔してるんだ。中身なんて分からないよ、剥いたって出てこないもの。皮だけだと苦いからさ、必死で啜るんだよ。そうすると甘いんだけど不安になる。それこそ、馬鹿みたいに。
手足を投げ出したって振り下ろしたって君は受けとめてくれる。安心なんて砂上の楼閣、ふかふかは気持ちいいけど不安定。溶ける前にかきあつめてもさ、結局消えちゃうなんて、分かってて雪だるま作ってた私だったらもう少しはましだったのかもしれない。今はかきあつめただけで途方に暮れてただ溶けるのを待ってるだけだもの。
それでも君の名前を気がつくと呼んでいる。蓉子。呼ぶことしか出来ない。呼ぶときは君じゃなくて、あなた。僅かな変換の間に頭をフル稼働させるけど、やっぱり出来ない。振り向かれるともう頭の中は白くなってしまう。反省なんてしようがない、だって覚えてないんだから。
嗚呼蓉子、本当、君って馬鹿だよ。何回呟いただろう。何回押し潰されただろう。
そして、私はもっと馬鹿だ。分かってるのに、翻る黒髪をただ見ている。吸いつくとつく跡は当たり前なのに消したくて何度も辿る。噛み跡もどろどろにしたくて跳ねる体を押さえつける。暖かい君は暖かいままでさ。我を忘れて摂取するんだ。後で後悔することすらも忘れて。
これが真実。そして、真実でしか無い。
相変わらず君は綺麗でさ。私は馬鹿という言葉を飲み込んで、もう一度君を見つめるんだ。
目を閉じてしまうまでの、ほんの数秒間の間だけ。
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