2、終わりの終わりと始まり









「期限つきの恋人になりましょう」




それは告白にしては、余りにひっそりとしていた。




室内は暗く空気中に飛散している埃が段々と張りついてでもくるかのような沈黙に満ちていた。そこに零れ落ちるのは予想外の言葉でしかなり得ない。ただただ薄く漂い続けるのだ。リフレイン。否、まるで呪いのように。
蓉子の紅い唇は塗りたてのペンキを何故か想起させて、私は否定を口の中で押し潰した。言わなければよかったのか聞かなければよかったのか、後悔だけが、双方から滲み出ていた。

偽って、誤魔化して、多分自分自身にすら隠してきた言葉は真実でしかなくて、故に酷く滑稽だった。論じるのは簡単だ。笑い飛ばしてやることだって勿論できた。
その後に逆接しか繋げないのは、言うつもりの無かった蓉子に与える言葉を私もまた、持ってはいなかったからであろうか。

埃の舞う小さな部屋で蓉子はただ泣いていた。泣きたいのは私の方だ。始まる前から終わりの見える恋愛を宣告されて。まだ返事すらしてないのに。
私は何故か酷く醒めていた。
蓉子の鳴咽はまるで木枯らしのように漏れ聞こえ渦高く積まれた段ボールに背をもたれさせてそれを感じている私は矢張り。
途方も無いくらい、滑稽で。





それからも、蓉子が笑うことは少なかった。
儚い雰囲気は確かに綺麗ではあったけれど、壊したいというような嗜虐心しか沸いては来なかった。壊すことが出来ないことも分かっていたから、大抵私は自分をはぐらかした。器用という弊害。……致命的な。
つまり自分すら騙しおおせる程度には、私は器用だったのだ。

何も持たぬまま、両の足は気紛れで私を蓉子の家に運ぶ。合鍵を差し込まずとも扉はあっさりと開いた。誘われているようだと身勝手に巡る思考。ブーツから足を抜き取ると妙に凹凸を体感する。ぴたりと嵌るように埋まるように足を前に出す。一筋だけ漏れる明かりに、矢張り誘われていた、と口角はあがりかけて。

かきり、と。
瞬間的に歩みが止まる。静かになって一層聞こえる規則的な音。時計が刻む響きが私は嫌いだった。秒針が流れていくように見えるものでさえ、ぜんまいを巻いているような音がひっきりなしにする。起きたとき唸っていて、邪魔をされたようで大層気分を害したこともある。遣り場のない感情は緩衝材のように蓉子が吸収した。感謝は言葉にはしなかったが行動で示してきた、つもりではいる。



ポーズを漸く解除し、再度歩き出す。脳だけがしきりに稼働している。走馬灯のように過去が蓉子が現れ消えていく。私の足はちっとも進まない。落ちて来そうな月が窓の陰から覗いていた。

そう、あの時も夜だった。暗い光は削り取られた残骸のような三日月と申し訳程度の蛍光管の明かりが作り出していた。部屋の主のように蓉子は、私に告げたのだ。理解したような気になっていた。彼女といるときだけ狂わされる自分を、気に入っていたのかもしれない。

ドアを開けても蓉子は気づかない。信頼なのか無関心なのか。
呼びかけると肩が波打った。まるで壊れかけた人形のように。
精密な機械はその分、脆い。何に耐えているのか潜められた眉を指先でなぞる。見開かれた目に私は映っていなかった。窓の外の景色が揺らいでいた。
目蓋を塞ぐように押しあてて、挨拶もなしに黙らせる。そのまま雪崩れこんで、……気がついたら、蓉子の腕に起こされていた。

何かを訴えるような瞳。懇願は誰に何に向かっているのか。以前蓉子に問い返したこともあった。彼女の表面に張り付いた強張りは回答を拒絶していて、仕方無くそっと、反らされた目の先を追った。無様に舞うように切り替わる視界の先が私は分からなかった。少し、失望した。
……多分私は、あの時自分の名前を聞きたかったのだ。
不意に納得して、あの頃の蓉子のように視点を回してみる。即席スライドショーは矢張りただ薄い景色が次々と映るだけだった。一巡りして戻ってみると、蓉子は少しだけ違って見えた。些細な変化。けれど。
……嗚呼、矢張り逆接でしか言葉は繋げない。

蓉子は、先程まで見ていた夢を恐怖でもしているような、そんな表情をぼんやりと浮かべていた。余り夢の記憶というものを持たない私には分かりようも無いのかもしれない。頭の端に残るのはべっとりとした不快感、最後に落ちていく感触、時折言いようのない浮遊感。繋ぎ合わせても彼女の思考には到底、辿り着けそうに無い。

事実蓉子のことなど何一つ分からないのだ。ただ、私が名を呼ぶたびに微かに震える彼女に、気がついているのは私だけだろう。多分本人も知らない。それが優越感を全く呼び起こさないことは何を意味しているのか。


思考に絡め取られ続けたくなくて、私は蓉子に手を伸ばす。カーテンを閉める。人工灯などではとても振り払えない月光は一枚の布で闇と化す。蓉子の抵抗は無い。自分すら窒息しそうになるまで口づけ続ける。波打つ肢体が、白い。

溺れるために溺れるのは、入水自殺を試みるようなものであろうか。彼女の声は、嬌声というより悲鳴に近く。懇願にも似た言葉未満の吐息は。
どこか祈りにも似ていて。













時計はもう朝に近い時間を浮かばせている。暗さに慣れた目が、蓉子を捉える。彼女の頬に残る透明な筋。指で辿ってもその感触は、本当に僅かで。
覆いかぶさったままだった体を横にずらす。皺だらけのシーツはそれでも忠実に私を迎え入れる。乱れたままの黒髪の隙間から見えた彼女の表情は苦しそうだった。小さな口元が私の名前を紡ぐのではないかと、耳を澄ませる。けれど、ただ。夜特有の静けさの擬音だけが漂っていった。
腕を掴む。蓉子の、細腕を。少しやつれたような気がする。抱きしめようとして、出来なかった。スキンシップは苦手だ。
そんな理由で蓉子を手放してしまう自分がいた。今日の行動に、高揚感などどこにも無かった。初めから私たちはそうだった。



ああ、

もう、

潮時だ。最初から悟ってでもいたかのようにストンと胸に収まったその事実。この臆病なゲームを続けるには二人とも擦り減り過ぎていた。だから、取り返しのつかなくなる前に。
こういう線引きをするのは元々蓉子の役割の筈だった。限界を悟るのも終わりを告げるのも一歩引くのも。事を荒だてずに生きていく術を熟知しているのは、彼女の方の筈。
……ああ、もしかしたら。
蓉子もそんな生き方に疲れてしまったのかもしれない。ストンともう一つ、沈む。
私は笑った。振動は、壁に沿うように滑っていく。部屋を覆い尽くし蓉子の分まで吐き出しても、まだ。
止めてくれる彼女は今は眠りの淵。私が突き落とした。天井が歪み降ってくるかのような錯覚。
ひとしきり笑った後は空虚が押し寄せる。こうなる事も、心中で分かっていた気がした。だから何だと言うのだ。自分が自分に問いかける。それを冷めた目で見つめる自分。終わりのないループ。

抽出を開け最初に目についたシャープペンとブロックメモを取り出して。出来るだけそっけなく見えるように私は筆を走らせた。


『帰るわ。ありがとう』


これが別れの言葉だと蓉子が受けとめる事さえ、私には前々から理解していたような気がしてならなかった。