サイレント・トリップ











午後の授業。満腹感が、というよりは漸く訪れた睡魔と疲労感が私をくしゃくしゃにする。風に揉まれているような感じ。半覚醒、半睡眠の状態を漂い続ける。右上がりの癖がある横文字で埋められているはずの黒板は、光の悪戯でちっとも解読が出来ない。特に問題は無い。どうせ予習はしてある。理解も出来ている。


開き直ると急速に気が抜けた。隣のクラスの蓉子やグランドでボール投げてるだろう聖は、もう少しは生産的な活動をしているのだろうか。窓から体操着は見えない。当然、黒板と壁を隔てた向こう側も。
席順で当てる教師の指名がこの時間中に回ってくることはもう無いだろう。カリカリとクラスメイトが立てる音が身体を包む。まるで自分も削られているかのような、そんな心地。


「嗚呼、このまま眠ってしまいたい」


そう思ったことだけは、ぼんやりと、覚えている。







気がつくと薔薇の館にいた。記憶がすっぽりと抜けている。かといってその空白で疲労感が軽減されたかと言えば、そうでも無いらしい。人事のような自分の感覚。階段も扉も音を立てない。ふわふわと、足が地から浮いている気がする。余り、心地良いものではない。


令、


ついと横切った優しい雰囲気に声をかけてみるも、徒労に終わりゆく。扉が開かれ軽快な足音は館から去っていく。鞄だけを残して。従妹の迎えか、或いは部活の顔出しか。そういえば6限は何だったろう。首を捻って、次いで今の時間が気になった。洗い立てのカップに触れる。紅茶一杯の時間を妹はどのように過ごしたのかと思い、それからこのカップを使おうと思った。それなら次は茶葉選びだ。何だか意図的に疑問、悩みを絞り出している気がする。事実には敢えて無視をし、シルバーの缶に手を伸ばしたところでかたりと音がした。
いや、実際にしたのかは分からない。ただ、私に聞こえたことは、確かだった。







抜けるような空があった。褪せた薄黄色のカーテンで切り取られた水色。雨の溶けたような。見る人が見れば詩や小説のひとつやふたつ書けそうな、そんな天だった。最も私には睡魔を助長させる存在、以外の何物でもなかったのだけれど。ロマンチストとよく言われる癖に、と自嘲したが笑いは喉の途中で止まった。静まり返った教室の中で目立つのはちょっと、御免被りたい。
ざわめきは木々のもの。ノートに罫線に逆らって三本ひかれた平行線に、書き足してあみだくじを作っていく。「彼はそこで一時間待たされました。」ベタな和訳。その上にも黒鉛が躍っていく。

柔らかめの芯は微粒を幾つも作り出した。

それまでが次第にぼやけ溶けていくのを眺めながら私はまた眠りへと落ちていく。







紅茶は少し冷めていた。ほんの少し残った温もりを貪欲に嚥下する。寂しい味が、静かに性急に流れてゆく。ティータイムと呼べもしない。急かされる中無理に取った束の間の休憩にも似た隙間。何を焦る必要も有りはしないのに。


がたり、再び音がして、ふと思い立った私は窓から身を乗り出した。果たして眼下に見えた制服の主が、自分の、大変良く知っている人物たちだと。気がつくまでの時間はかなり長かったように思う。

緩やかな動作で微かに伝わる衣擦れの音。一度知覚してしまえばそれは、かなりはっきりと私に届く。研ぎ澄まされる。自分のティーカップを置いた音は捉えられない代わりに。

がさりと、桜葉が鳴った。

風は私のところまでは届かない。ただ、聖の小さな、けれど本当に可笑しそうな笑い声が、鮮明に聞こえていた。それは、完全に凪いだ後もクリアなままで。

どこか鈍痛を伴って、私の中へと滑り落ちていく。







微かな喧騒が耳を心地良くくすぐった。

梢が溶け込んで見えるような、そんな髪色をした彼女の気配を感じる。どこまでも柔らかい。そのまま動かないでいると、少し困ったような顔。見ないから分かる。戸惑いと逡巡と躊躇いと。
目覚めて消えていく心地よさの残滓を手繰るような覚束なさで思考が巡る。手で掴む端から消えていく。感じるのは、ほんの僅かの存在感。温かい手。

私には勿体無いその優しさは、捕えられる寸前のところでただ漂い続けていた。指先ばかりをすり抜けて。







静かな、静かな吐息だった。

知らず、息を詰めていた。息苦しさは無い。視界が微かに揺れている。

瞼の上の重みと熱の誘惑に私は敗れそうになる。手の甲に爪を立ててみても、これが痛いのかそうでないのかは確証が持てない。鞄は未だあった。少し位置が変わっていた。ティーカップに薄く残った液体はとっくに味を温度を失っている。

鼻先の香りは熱は遥か遠くから届いた。



これは夢なのかもしれない。聖も、蓉子も。夢の住人。弛緩しきった笑み、至近距離の顔、二人の無頓着さ。悔しいくらい似合っていて私は多分少し嫉妬した。

どちらに対してかのものかは、分からなかった。







目の前が明るい。嗚呼、これは矢張り夢なのだ。現実かも知れない夢。薔薇の館の死角に彼女たちは今、きっと二人きり。


私は目覚めたらどこにいるのだろうか。

到着点を知らぬまま意識を放棄する。



優しい茶色の髪と瞳が、迎えてくれたような気がして、

そして、