tryst









篠つく雨が降っていた。後から、後から。

私はその雨に打たれていた。文字通り、そして、それ以外には何も含む事はなく。既に服はただの重りとなり雨粒は飽和状態の肌を滑っていく。叩きつけるように撫でていく。いつからそうしていたのか。いつまでそうしているのか。
私には、分からなかった。


口を開けると水分を飲み込むことになった。
目を開けるとプールの中のように世界が歪んだ。
上を向いているからだ。けれど、私は体の角度を変えるよりも口を目を閉じることを選んだ。鼻で呼吸をするのは少し疲れる。雨が撫でていく感触を感じながら私はそんなことを思っていた。


ふと。


蓉子が立っていた。
いとも当たり前のように。そこに。
そして私もまた、当然のようにそこに蓉子がいることに気がついていた。目を開ければ、プールの中では無く蓉子と二人の世界が広がっていた。
彼女の紅い傘は少し傾げられていて、本来の役割を三割程しか果たしていない。黒髪が、特に左頬にひたりと張り付いていた。
雨がざあざあと降っているのに、彼女は奇妙に乾いて見えた。傘から伝う雫も空から溢れる滴も降り注いでいるのに。まるで違う。空気と水と傘と服。皮膚、脂肪、筋、内臓、どこまで取り去ればひとつになれるかは分からないけれど少なくとも二人の間には、ほんの僅かしか隔たりが無いというのに。
蓉子が口を開いた。


「何処へ行くつもりなの?」


落ち着いた動作だったのに肝要の言葉だけは、どうにも急いた様子で滑り出て来ていた。ちぐはぐな、彼女らしからぬ仕草に私はくすりと笑おうとする。けれど出て来なかった。絡み付いて。唾液を燕下した後にはもう何も。



「…何処にも、行かないよ」


言葉までもが濡れていた。湿っていた。
雨は等しく不平等に体温を下げ続けていた。


「……そう」


蓉子は寂しそうに微笑んだ。ひっそりと、顔を歪めて。
遠くを見つめていた。私なんか見ていなかった。
慌てたように付け加える。


「ここにいる。ずっと、蓉子の隣に」


はっとした顔で蓉子はこちらを向いた。手から傘の柄がするりと抜け落ちてそのまま回転した。くるり。障害物が一つ消えた。


「駄目よ、聖」


私を諭すよりも寧ろ、自分自身に言い聞かせているかのような口調。駄目よ、それは。お願い、やめて。理由の欠如した懇願が次々と続いていく。


耐えきれない。私は一歩踏み出して。


「え?」




地面が、消えた。










ドスンと。振動は伝わったのに音はしなかった。水も跳ねない。髪をかきあげると呆然としたような蓉子の顔がすぐ目の前に。


今まで彼女を見下ろしていたことに今更ながらに気づく。私はどこにいたのか。見上げても、放射状に刺す雨しか無い。空すら見えない。不意に途方に暮れてしまう。


「………ばか」


蓉子は怒っていた。肩が少し、震えていて。それと同じだけ泣いているようにも見えた。一回り小さくなったかのよう。


「…ごめん、蓉子」

「謝って欲しいわけじゃないわ」

「…じゃあ、ありがと」

「一体何によ」

「……どうすればいいってのよ」

「………」


重たい服が厭わしかった。ジャケットを脱ぎ捨てると左腕に走った切り傷が幾つも見えた。生乾きの紅を水がさらっていく。


「……ば、か」


蓉子が呟く。ほらまた。私を見てくれていない。カサカサの蓉子の唇が気になってしょうがない。舐めて潤したい。そうおどけて言いたかった。


「……っ、…ふ」


鳴咽は口づけで漏れる吐息に少し似ている。


「………ん………ぅっ……」


あくまで類似しているだけで、同じ温度は持ち得ないのだけれど。


綺麗だった。蓉子は。とても。
そして私は無様だった。シャツが肌に張り付いて皮膚呼吸を妨げる。苦しくは無い。ただ、不格好に喘いでいるだけだった。


これも、そう。蓉子におどけて言いたかったことのひとつ。シリアスな空気をぶち壊すのはいつも自分でいたかった。いや、蓉子のシリアスな場面にいるのはいつも自分でありたかった、が、本当のところ。



……ありたかった?


何かが私を襲う。浚う。
掴めそうなぎりぎりのところでちらつく。雨音が邪魔だ。服が、皮膚が筋が邪魔だ。蓉子に手を伸ばそうとして私は蓉子がいないことに気がついた。


否。

蓉子が背後にいたことに、気がついた。


「…どこにも、いかないよ」


漏れた呟きはどこに行くのだろうか。
私は何処に、行くのだろうか。


小さくかぶりを振る蓉子の髪は艶やかで。
少し怒っている目元は吸い込まれるように深く。
引き結ばれた口元は紅くてとても魅力的だった。



「聖。」


髪が長かった頃よく呼ばれたときの口調。


「別に何処に行っても構わないわ。でも」


ここだけは駄目、と強い口調で、その癖消え入りそうな視線で。


……………………
何処にも行かないじゃない。

私は何処にも、「行けない」のに。


視線を泳がせた先には紅い傘が転がっていた。宙を浮いた柄が滑稽だと、かなりどうでもいいことを思って。


蓉子の腕を掴んだのは、無意識だった。
そのまま引っ張ると蓉子の体躯はバランスを崩して右側から倒れこんでくる。抱き寄せるなんて優しいものじゃない、握り潰す程の力を込めた。


首が振られる。弱々しくけれど明確な拒絶。でも矢張りそれは、私の行動を止めるには力不足で。


ただ、離すまいとすがった。なぜだろう、彼女に触れ合えたのが無性に嬉しかった。
蓉子に触れないなんて、どうして思ったりしたのだろう。



こぶしも打ちつかれたのか、ゆるりと最後にもう一度首を振って蓉子は静かになった。吐息は限りなく何かを諦めた溜め息に似ていた。

何を諦めたの、と聞きたかったけれどそれは蓉子の腕に遮られた。

滴が垂れていく。蓉子との境界線がはっきりと分かってしまう。雨の落ち方からして違うのだ。理由は分からなかったけれどそれを蓉子に問うのは酷く失礼に思えた。私は蓉子の怒った顔なんて、勿論見たくなかった。


雨なのか涙なのか分からない水を掬ってくれる蓉子の指。半円を描く。半月になり、八の字になり。名残惜しそうにそっと離された。


「あ……」


随分と間抜けな声が漏れる。開いた口から入る雨の味。息苦しく思えて閉じるとそれは倍増してしまった。そうだ鼻での呼吸は疲れるんだっけ。


ふ、と蓉子の口角が上がる。怪訝な表情で見返すと矢張り何かを諦めたような、その癖満ち足りたような、笑みが待っていた。

蓉子は笑っていた。私の首に腕を絡みつかせて。髪の匂いが鼻孔を擽る。したたる滴を見つけて、何故か安堵した。よかった、一緒だ。一緒だよ、蓉子。

少なくとも、今は。

抱擁は甘く刹那の歓びを纏っていた。見えなかったけれど、蓉子は確かに笑っていた。見えなかったから余計に鮮明に感じた。


嗚呼。


私は。


蓉子の笑顔が見たかったのだ。
この、笑顔が。


唐突に、理解。



「………ありがとう」



蓉子が自分が透けていく。
蓉子も私も空気も皆曖昧だ。思考までとろとろに溶けていく。
残るのはただの充足感と蓉子の声の余韻。



ゆっくりと暗転していく視界。
次に目覚めたとき、蓉子には会えるのだろうかと考えたのを最後に私は思考力を失った。



まるで堕ちていくような、終焉だった。