00.


・原作から大きく逸脱した世界です。登場人物の性格も脚色されています。
・戦争パラレルとは有りますが、戦闘シーンは笑ってしまうほど出てきません。
・管理人が息抜き及び習作のために作っていた話です。
・特に何の考証もしていません。現実世界とは多々矛盾が生じていると思われます。
・便宜上番号は振って有りますが各話独立してます。緩く世界観が共通している程度です。
・続く予定は特に有りませんが続きを書かないという予定も特に有りません。

・気分を害した等の苦情は普通にスルーします。以上の注意書きを読んだ上でお進み下さい。


01.(江蓉)
02.
(江利子、令)
03.(祥子、祐巳)
04.(聖志)
05.
(乃梨子、瞳子)
06.(令、由乃)
07.08.09.10.(静)

11〜





































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01.




「……ねえ、どうして私たち、」


敵同士なのかしら、と。その黒いつややかな髪の先まで震えた少女はそっと呟いた。
白い建物、監視棟と武器庫に挟まれた空間には刹那の時が、戦場にはありふれているようでけして有り得ない時間が、流れていた。


風が強い。穏やかな空模様は地表には影響を与えず砂煙は好き勝手に吹き狂う。まるで思考と行動のように決別した動きを見せるそれらの下に、ふたりは立っていた。ひとりはひとりに顔を埋めて。ひとりはひとりに腕を回して。黒いコートから覗くのは燃えるような緋、鮮やかな山吹。交わることは無いはずの、そのときは刃も交わっているはずの、相手。


「……ねえ、」


呼びかけは切ない甘さを含んでいた。冷たい氷の、緩やかに溶ける様は目の前の相手しか知らない。それは致命的でしかし唯一の支え。ここで生き残るには意志が必要だ。何物にも負けない、強い、意志が。

それは思いを千々に乱れさせしかし要のところで繋ぎ止める。皮肉にも、周囲を、江利子の配下を血に染めながら。


「そうね、でも」


腰にあった腕があがってきて髪に通される。少しだけほつれ疲労を感じさせる梳き具合。宥めるように、動き続ける。



だから私たちは好きあったのかもしれないわよ。



突き放す言葉はいつものように蓉子の心中を抉った。同時に落とされるはずの突き放す視線はけれど存在しなかった。蓉子が顔をあげる。江利子の見る先は、遥か遠くにあった。その先は見たくなくて顔を伏せる。睫に影が、落ちた。


江利子の肩口をそっとなぞる。銀の星の硬い手触りを厚みの奥で感じる。記憶よりひとつ増えたそれ、数週間前に自分の情報網からも無機質なデータとして届けられていたその昇進の報せ。同時の異動命令。事実上の左遷。前線はこの上なく危険でそして蓉子自身がいる。もう二度と、こうして会うことは無いのだと、互いに知っている。知っているから、そう告げる必要は、無いのだった。


……なんとか言いなさいよ、……


額を頬をその凸凹に押しつけたら江利子の抱きしめる力も強くなった。風鳴りは耳元で渦を巻き続けていた。蓉子の髪を攫い、江利子の全身を。それは心から無情で優しい愛撫。




……貴女のために、全てを捨てることは、出来ない。




私は死ぬ瞬間にきっと貴女のことを考えるのだろうけれどそれでも、と。

囁きは本人の心の中にだけ落ちてそれから崩れるように消えていった。










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02.




「綺麗な目ね」


「……は?」


指揮官だ、というから無骨な或いは食えない中年でも出てくるのかと思っていたら、現れたのは物凄い美人だった。この人はもっとドレスでも着て違うところにいた方が似合うんじゃないか、そんな感想を思わず抱いてしまうくらい。自国民でも容赦なく切り捨てるという噂はこの人が纏うとどこか妖しく聞こえる。揺らめく雰囲気が、なんというか。


隣でこくんと喉の鳴る音がした。慌てて意識を集中させる。何をされるか分からない。取り上げられた長剣を求めて、手が。無意識の内に床を這う。震えにも似たその動き。す、と目の前の人の表情が細く鋭くなる。


「ねえ、貴女、」


蛇に睨まれたかのように動けなかった。剣は強い癖に怖がりなんだから、ととびきりの笑顔で言われたこともある、あの時の蛇よりも遥かに強力な視線。そうだ最愛の従妹のためにも私はこんなところでやられる訳にはいかないのに。


「名前は?」


黄金と若草の混ざった思い出や決意は瞬く間に消え失せて。


「あ、」


……支倉です


咄嗟に名乗ってしまった本名と、馬鹿じゃないの、と浮かぶ由乃の声。多分どうせすぐにバレちゃうしさ。そっと弁解する。実際に会った時もう一度怒られなきゃな、と生きてここから出られるかも分からないのに。苦笑いを浮かべたところで、ばさりとコートが目の前に翻った。


「私は鳥居、」


江利子って呼んで。
そう言ったときの表情は窺うことが出来なかった。呆けていたからなのか階級も聞くことなしに、私はいきなり前面に強く押し出されていた。いや、引っ張られていた。


江利子さま、

苦労してつけた敬称に漸く振り向いた彼女は、満面の笑みで告げる。


「私のために剣を取らない?」


私が闘うのは由乃のためです、と今まで幾度も幾度も口にしてきた言葉は。そのときだけは、どうしても、出てきてはくれなかった。射竦められた私は彼女に見とれていたのだろうか。知らぬ間に物理的要素を超えて、捕らえられて、いたのだろうか。



そしてこれから一年の間、私は由乃の元を離れたままこの人に仕えることになる。










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03.




「もう行ってしまうの?」


気づかれないように、そっと、縁に足をかけたときに投げかけられた言葉。少しだけ絡みつくような粘度で、広い部屋を覆い綿埃のように緩やかに舞う。けほりとひとつ落ちた咳に歩みは止まったが祐巳は振り返らなかった。未練は、あくまで心の中だけに。


「ええ」


しん、と世界は冷える。裾の長いドレスからは、細く白い足が覗いているはずだ。風化した骨のような、二本が仄かな月明かりに浮かび上がっているはず。世の汚れなど現状など知らぬはずの彼女の前で、不謹慎にも考える。女王然、と称してもいいくらいのいつもの様子は夜のせいか影を潜めていた。優しいというより、ぐずぐずに崩れてしまったかのような気配。

最も、この舎全体がそんな感じでは、有るのだけれど。


「……聖さまのところへ、行くのでしょう?」


いつ正式に退出しようか、そればかりを考えるように努めていた祐巳は、それをやり過ごすのに失敗した。ぴくり、小さな揺らぎは思わぬ動揺を与える。まだまだ未熟だねえ。へらりと笑う、今さっき名前をあげられた人を強引に頭から追い払う。知らず、微かに首を振っていた。


「……ええ」


自分は嘘をつくのは下手なのだと、十二分に知っていた。繕うことは出来ない。それに何より、彼女の前で、そんなことしたく無い。心からの思いだった。


「行ってらっしゃい」


失礼します、そう、口に乗せようとした瞬間に言葉が被せられた。はっと反応してしまう自分を押し留めることは今度こそ出来なくて。瞳を覗き込むように振り向いた祐巳はあはは、と情けない笑みを浮かべる。敬愛する姉が、どきりとするくらい優しい表情をしていたから。それこそ、昼間には見られないような微笑み。蓉子さまなら見たことあるのかな。いや逆に、蓉子さまの方がこんな感じで笑っていそう。祐巳は一巡り二巡りと表情を変えそれから負けないくらいの笑顔を作る。


「はい、行って来ます」


ごきげんよう、と部屋を出る。底冷えのする夜気が急に身を刺して思わず震える。それでも確かに幸せだった。嬉しかった。


からり、独り室内に残る祥子の寂しげな姿を思いながら、祐巳は急ぎ足で廊下を進む。うす青い空気の中、微かに足音だけが。静かに軽快に響き渡っていた。










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04.




神は、必要ですか?


教会の荘厳な、檻ともいえるほどの無骨な柱に囲まれてのその台詞は、よく街で聞く安っぽい勧誘や粗末な兵舎の講義のような教義より遥かに心に染み入った。
それがよく知る子の声でならば、尚更。
少し震えたのはだからその言葉を嫌悪した訳では無い、昨冬遠くへ行ってしまったあの人を恨んででは尚のこと、無い。子供でしか無かった自分に対する後悔、それは狂おしいほどに身を焼いていく。くすぶるように、消えてくれない。
けれど目の前の彼女に焼け跡が癒されていくのは、ただ気持ち良くて。堅い木の椅子に寝転んだまま私は目を閉じている。

暫し考える。志摩子は答えを求めたものではないのだろう。でも何も私に求めなかった訳でも、矢張りない。独り言に近く、それでいて密やかに残る、もしかしたら志摩子自身未自覚かもしれない、期待。目を覆う右腕をどけたら体ごとずれて、ごとりと鈍い音がした。重りのように重力を感じる。最も幸運なことに拷問されたことはないけれど。今のところ。


そうだね、

自分の声もまた独り言めいている。
微かだから微かに反響が起こり何か密会を拡張されてでもいるようだった。居心地の悪さはさほど感じない。


少なくとも、私にはいらないかな。


いや、いらないままで、いたいのだ。
彼女の望まぬ答えを出して、それで私は少し笑う。くすんだ宗教建築の中、ステンドグラスだけが細やかに光を与えてくる。美しい、とは思う好きだとも思う。でも、私は。

志摩子の吐いた息には哀しみも残念さも無かった、けれどただそれは驚くほど近かった。飴色というには薄い、ミルクティの色合いの髪。その合間から覗きこまれ、私はくすぐったく感じる。現実的に、物理的に。顔を撫でる繊細さは脆さにも通じていた。束の間の休息などと粋がってみるのは気恥ずかしいが矢張りどこか絶対的な安心感がある。志摩子といること、ただそれだけで。


……不敬だね。

乱暴とも言えるほど丁寧に拭われたものは、けれど志摩子につくことなく滴り落ちていった。重力は、その重さは誰にでも平等で。


……いいえ。

志摩子で影になった私の表情は、彼女以外が見ることはけして無いのだから。


……本当に、不敬だよ。

腰の重りを押さえながら、そっと、呟いた。



(必要なのは、多分それでは、無いのだ。)










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05.




「ばっかじゃないですか!?」

びりびりと、誇張ではなく部屋中に響き渡るその声に。
予想通り、とはいえもう少しタイミングを図るべきだったかなあ、と乃梨子は思わずため息をつくのだった。


いや乃梨子だって馬鹿らしいと思ってはいたのだ。争いが本当に好きな奴など滅多にいるはずは無いし、いたらとっくに死んでいるか或いは総帥にでもなっているだろう。乃梨子は生憎どちらでも無い。士官学校にも行かなかったただの高等学校生だ。まあ趣味は少々珍しくはあったとしても。

何故、どうして、何だってと瞳子は畳み掛けるように質問してくる。自問みたいに、同じことを、言葉を変えて声音を変えて。少しまずいかなあ。乃梨子はもうひとつため息をつく。なにしろこのアパートの壁は酷く薄いのだ。防音効果が無いのが自慢、と揶揄される程に。

「うん、だからさ、」

順を追って説明するからまあ落ち着いてよ。
ティーポットに茶葉を、少し悩んでから二人分放り込んで乃梨子は顔だけ振り向く。志願兵説明の紙は案の定瞳子の手の中でぐしゃぐしゃにされていた。彼女の怒り方は最近なんとなく把握してきた。この間は自分用の飲み物を緑茶にしたら怒ったんだっけ。同じもので良いって言ったのにとかなんとか言って。
そして今の瞳子は物凄く私に言いたいことがあるのだろう。乃梨子の判断は漸くそこにたどり着いて、軽く頷いた。今度は瞳子の方が、ひとつ、息をついて。


「書類提出はもうされたんですか」
「うん」

「いつですの?」
「今さっきかな」

「いつここを出られるんですか」
「今度の火曜日、だから4日後だね」

「何故空軍にしたんですの?」
「……えーと、気分?」


馬鹿じゃないですか!?と怒鳴り声が再び部屋に響く。女優志望の子の肺活量は冗談じゃなく凄い。ここまで来たら防音とかもう無関係だよなあ。思ったより色の濃い紅茶に顔をしかめる。仕方なしに隣からスジャータをつまみ出すと、もう一言。

「それで、理由は?」

今までとは一転して静かな声だった。そのくせよく通る。こん、と机とソーサーの接触面に意外に大きな音が、落ちた。

「好きな人がいるから」

にこり、微笑んでみる。来ないでと言った、あの寂しそうな目を思い出しながら。分かってしまったのだ、私は彼女のそばにいるべきだと。守れなんてしないだろうもしかしたら迷惑かもしれない。それでも。
……いや、自分が彼女の、志摩子さんのそばに、いたいのだ。必要とされたいのだ。

認めてしまえば後はとても楽だった。なにしろ、一番大変なのが、今目の前の人を納得させることなのだから。

「……そう、ですか」

カップの縁に、誤魔化すように口をつけている瞳子の顔は少し紅かった。瞳子も大切だよ。声に出さずに呟いてみる。
渋めに出来上がった紅茶は、室内の空気と一緒に。ゆっくりゆっくりと喉を滑り落ちていく。

もう、言葉はどこにも無かった。


























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06.






しろつめぐさを編んだことがある。細い華奢な輪になってそれは由乃の頭に引っかかっていた。私がかけてあげたのだ。そのくせ由乃はいつも変に動き回るものだから、それも例に違わずずれて落ちかけて、おさげの片方にかかっていた。クローバーの青臭さ、ふわりとした春の風。まだ少し寒くて、由乃に羽織らせたカーディガンは確か薄桃色だった。過保護って言ってるじゃない。そんなことを言って、由乃は暫くの間不機嫌なままだった。私は白いパーカーだけだったから。
機嫌取りに作ったその花輪まで振り落とされてしまうのでは無いかと、実のところ私は少し不安だったのだ。かろうじて振り払いはしなかった由乃。当時のふたりの関係を意外に風刺して見せてはいないだろうか。悪戯っぽくそう言った由乃の姿はあの頃より随分大きくなっている。その時からもまた暫く、時は過ぎた。
毎日はめまぐるしくてその分小さい頃の思い出が懐かしい。ねえ由乃、とそんな話をし始めると由乃はまた怒り出すのだろうけれど。過去は変わらないから、そして私の過去は大抵由乃とふたりきりだから、優しいのだと思う。甘酸っぱい。令ちゃんの好きな小説みたいだね。憧れで買っていた空想の世界は、思いもかけず近くにあったと知ったのは最近のことだ。けれど、けらけらと笑う由乃の姿すら今は遠い。懐かしい。まとめれば、それら諸々は、幼い頃思い描いていたファーストキスの味によく似ている。

それは多分、その過去にはもう、戻れないから。


そう、思うさま休日の昼間を消費した後、私たちは帰路についたのだ。早くもしおれてきてしまう緑の輪。軽く首を傾げて、由乃は私の方を向いた。令ちゃん、と呼んでその先はいつも同じ。由乃は捨てたかったのかもしれない。でも私は家までかけていって欲しかったから、手を伸ばして整えるのだ。風に当てられて、火照った頬には事実よく似合っていた。令ちゃんがつければいいじゃない、ふてくされたように口にするから、由乃の方が似合うよ、と本心から口にする。いつも通りのやり取りだったけれど。

違う、令ちゃんの方が似合うよ。

強い調子で返されて、思わず目を丸くした私の視線の先で由乃は怒っていた。少し水分をたたえた大きな瞳。

令ちゃんも、木刀なんかよりずっと、似合うよ。

少し、悔しそうに。


その悔しさはどこに起因していたのだろうか。今思い返しても、いつ思い返してみても、明確に答えは出ない。立ち止まった由乃の紅い頬、細長い影、跳ねた毛糸の帽子のボンボン。そんな情景ばかりが鮮明で、由乃の声ばかりが頭に残っていて。編み上げたしろつめぐさを当時の私の頭に乗せてみても、由乃の隣の私は困ったように笑うだけだ。今だってそうだろう。だからきっと、今の私にも似合わない。同じように、あの頃の私に木刀が似合わないのだから、今の私のこの状態だってけして合ってるとは言えないのだろう。部屋の姿見にちらりと目をやって苦笑する。さっきまでの回想とは違って、今ここに由乃がいないことなんか、分かっていることなのに。

それでも、私は由乃を守るよ。

あの頃と、同じように。

思考のふたを閉じて。怒った由乃の顔だけちょっと、残して。遠くから微かに私を呼ぶ声に首肯だけを返して、よつばのしおりをそっと挟み込む。小さな思い出は一緒に畳まれてしまわれていく。

緩やかに歩き出す風はまだ春には少しだけ早く少しだけ優しかった。










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07.




歌うのが好きだった。昔から、歌だけは誰にも負けなかった。歌声を勝ち負けで判断するのは大嫌いだけれど、少なくとも私はいつも誉められたし、音楽のテストは満点だった。少し誇らしく、少し願っていた。いつかこれを職業に出来たらいいと。真剣に勉強もした、教会の聖歌隊に習いもした。いつか自分はその一員になりトップになっていた。
片田舎の田園の中、その風景はただただ牧歌的だ。そして端が少し、黄ばんでいる。



彼らが来たのは突然だった。

いや、正確に言うなら、全ては周到に進められていたのだ。酒場に最近顔を見せるようになった彼がいたり、この間道を尋ねてきた旅人が紛れていたり。そんな人が幾人か混じって、隣国の旗を掲げ村に雪崩れ込んで来たのはもう何年も前のこと。そのくせ未だに一番鮮明な戦いの記憶。父が死に、母は消え、そして私は捕らえられた。ひとり丘の上にいた私は良くも悪くも目立ったのだ。こちらから見易い位置は大抵、あちらからも良く見える。父がくずおれるのは見えた。母が逃げていくのも見えた。まだどこかで生きていてくれれば良いと、思う。


「幾つだ」


固められた右腕の痛みより遥かに怖い声で男が問うた。


「10」


私は答えた。10。そう、たった10歳だったのだ。


「結構」


何が結構なのか私はこれからどうなるのか、何もかもは分からないままだった。
男の握力が緩んでも何も出来はしなかった。少し前に酒場で、綺麗な声だと笑ってくれた、男だった。細められた目はとてもとても優しそうな、色をしていた。


……アヴェ・マリアだ。


安酒場には余りに似合わないあの時の歌を思い出したのと同時に手刀が落とされて、私は意識を失った。それが幸せだったのかどうかなど勿論、今の私には知る術も無いことだった。















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08.




気がついたら冷たい土の上だった。私は目覚めは良い方だ、けれどその日は最悪だった。宿酔いをした後のようだ、と今なら称すだろう気持ち悪さ。アルコールの味を知ったのは軍に入ってから、だから当時の私はただ猛烈に気分が悪いと思っただけだった。くすんだ匂いがして、喉が痛かった。はっとして手を当てる。声は無事だろうか、けれどソプラノを確かめるのはここでは無理だろう。次々とそんなことが思い浮かんで、それから私は初めてここはどこだろうと思った。あの頃から私は興味の順番が少しおかしかったのかも、しれない。
あの頃はまだ笑って口になど出来はしなかったけれど。



不意にどさり、と隣で音がした。幾人かの怒鳴り声、反響しくぐもって良くは聞こえないけれども罵っていることだけははっきり分かった。暫く続いた後、ひとつ鈍い金属音を立ててこれまた唐突に辺りは静かになった。そして足音が聞こえ出す。複数、多分3人程の。



予想に違わず現れた人達は迷彩服に身を包んでいて、けれど予想外にそこには知った顔がまたも混じっていた。後ろで控えていて、あああれは副官だったのだろうか。ひとり横柄な人が、がちゃりと格子を揺らす。


「何が出来る」


「歌えます」


咄嗟にそう答えてしまったのは、子どもながらの反抗心か或いは真逆の素直さか。
ふ、と鼻で笑ったのは、確か、後ろにいたもうひとりの方の人。
殴り飛ばされ後頭部に火花が散った、歌を誉めてくれた人は少し切なそうな表情だった。それは私の錯覚かもしれない、自己防衛のための幻想かもしれない。喉は相変わらず痛かった。石壁に激突した頭蓋よりもそれは遥かに。


「歌に何が出来る」


勝ち誇ったように呟いた男には、それきり二度と会うことは無かった。何が誇らしかったのか私は今でも分からない。


でも、まあ子どもは役に立つ。


役に立つ。その通りだった。私たちは多分とてもよく彼らの役に立っていた。
あの中で私は便利な捨て駒のひとつでしか無かった。歌声は、自分のものを含め一度も聞いたことは無い。

ただ、ひとり。聞きたいと言っていた子がいた。同じ捨て駒のひとつ。いつか聞かせて、とそれは彼女自身の暗示でもあったのかもしれない。
彼女は私が殺した。青い眼の幸の薄そうな、子だった。声がいつも少しかすれていた。

勿論もう、会うことは無い。




















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09.




その教会は古めかしくて、率直に言わせてもらえば何か出そうな雰囲気だった。それでも私は気になっていて、兵舎と呼ぶにも粗末な部屋から時折目を向けていた。実際に足を運んだのは随分経ってからだ。明日には移動、という日。勿論オフだとか休日だとか私たちにあるはずも無いから、貴重な昼食を放棄して、こっそり抜け出して。壁伝いに音を立てずに歩く術を体得し、無意識のうちに使えるようになったのはいつのことだったろうか。こうやって、思考しながら周囲に気が配れるようになったのも。


それでも年季を経た蝶番は軋んで開く。
多分今なら自嘲と呼ぶに相応しい笑みは奥で怠惰そうに身を起こす人を目にして消え失せる。


微かな動きに誘われ白が、視界を覆った。



一目惚れかと問われれば私は何と答えたろう。恋愛を知るより前に人を殺めた。好きかと問われれば躊躇いがちに頷いたかもしれない。最も訊く者も知る者もいはしなかった。多分、あちらも。私のことなど見てさえいなかった。

故に私の記憶だけに存在するその出会いは、私だけを蝕んでいった。こっそりと口ずさむ歌が変わった。いや、微かにでもそんなフレーズを思い出した自分に驚いた。もう一度会えるのだろうか。期待は膨らみ、けれど弾ける前に移動が決まった。目を奪われた、少し異国風の、美しい少女をだから私は諦めたのだ。初恋に決別。心中でおどけ、日常に埋没する。端から見れば非日常的な、実のところはありふれた日常に。






















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10.







気がついたら、助けていた。



地が足についていないような少女。ふわりと舞う髪の隙間からは、苦悩と躊躇が覗いていた。彼女のためでは無い。それははっきりと言えた。何しろ攻撃の目標だったのだ。直ぐにでも朽ち果てそうな宗教建築を崩すのはいつだって未成年の役目だった。神を信じさせては貰えなかった子供たち。


聖、という言葉を初めて聞いたのは彼女の口からだった。零れ落ちた名前の先には、あの人がいた。偵察の折、息は止まりかけ私は自分を疑った。どうしてこんなところにいるのだろう?
どうやって帰ったかなど覚えていない、けれど私が再び彼の地に足を向けたのは確かだ。私たちの噂は既に耳に入っていたのだろう、硬直した彼女への闘争宣言。夜には炎が上がる。勝敗は始めから分かっていた。



あの時私の要求を跳ねのけた彼女の手首から見えたロザリオは、白く鈍く光を放っていた。



あの方が手に掲げていたこともあるのに、私が聖歌を紡ぐ時思い浮かぶのは決まって彼女のそのシーンだ。任務に失敗した、奇跡的に逃れおおせた先の歌い。聖さまは笑って言った。貴女を助けたのは私では無いよ。


最初で最後の聖さまの瞳の中の私は、思ったよりずっと、振り切れた顔をしていた。



今も彼女には手紙を時折出す。けれど私がそのことを、書いたことはない。