01.〜10.

11.(江蓉)
12.(志摩子)
13.(由乃)
14.(乃梨子)
15.16.17.(蓉子・聖)
18.(令・江利子)

*ページ内リンクがうまく機能していません……申し訳ありませんがスクロールでお願いします……。









--------------------------------------------------------------------------------------







11.




わざとくたびれた紙に残す、微かな筆跡。私にしか分からない場所と時間、そして相手。来ないはずがないと思い込む心と同じくらい、来るはずがないと感じている。ぴんと張り詰めた糸が切れてしまう前に。走っていく私の意識。花占いのように散らばっていく。
最後に残った一枚の、くたびれたひとひらは。江利子に会う前にいつだって、ばらばらに千切れてしまう。彼女は安堵と不安を同じだけくれる。だから。



……何か、ないの?



約束が欲しかった。鎖を願っても、いざとなれば、彼女は躊躇なく離してしまうと知っていた。だから、望まない。けれどあなたが願うものなら。
あなたを信じる私なら信じられると、告白めいた言葉を吐くことは私でも、ないのだけれど、それでも。


江利子は首を傾げ、ややあって、そして微かに横に振る。答えはともかく、その間は想定していなくて、不覚にも私の体はどくりと揺れた。重い振動、一瞬で沸騰する全身の諸器官。


間隙をつかれ、私は江利子の腕に絡めとられる。冷たくはない。私とは違い落ちついた、温度。



……でも、そうね。


あなたに誰か好きな人が出来たら、私のことなんかきっぱりと忘れてしまいなさい。



自分で顔をあげることは許しては貰えなかった。掬いあげられて。江利子が全く憂いを帯びていないのが、たまらなかった。愛おしげな視線、あくまで柔らかく、触れる指。錯覚でも誤謬でも良いと思った。だって彼女の亜麻色が見ている私は、あまりにも。



水分の無い涙は、はらはらと彼女に纏わりついていった。やさしい江利子が私を抱きしめているのは、やっぱり、私の錯覚なのかもしれなかった。
























--------------------------------------------------------------------------------------






12.




見上げた空には相変わらず、何もありはしなかった。もっとじっと見つめても。千切れ尽くした雲がいくつか、原色のカンバスに引っかかっている。今日は洗濯物がよく乾きそうだ。誰かに気付かれないようにこっそりと、溜め息をつく。



……私は何を、期待しているのだろう。



誰も死んでなんて欲しくない。殺されるなど、もっと、嫌だ。それは本心からの叫び。誰もが持っているはずの願いを私は毎日、神に祈り続けている。皆のためだなんて、殊勝なことを言えはしない。結局のところ、私はひとりで彼の人の前に立たねばならないのだから。

けれどそのささやかな矜恃を、私は実のところ持て余してしまっている。



真っ赤な手に息を吹きかけながらその日の天気を確かめる時、あんなに憎んでいた煌めきを確かに探している私がいる。失望と安堵。見つけても、見つけられなくてもやってくるそのふたつが、私の中で冷たく回る。掻き回す。幸せなのだろうか。そんなもの誰にも分かりはしない。半ばやけになった思考は、けして私の外にまで溢れ出しはしない。まだ白い包帯をぱん、と伸ばす。これも使わずに済めば良いのに。昨日、全然足りない、と呟いたシスターは悔悟に溢れていた。その実直さが、私には眩しかった。



きいん、と唸る響き。反射的に見つめる、探す機体の三本の線。まだ新米だからさ、照れくさそうに笑った彼女の印は明るすぎて高すぎて見えなかった。ぱたぱたと村の子が走る音がして、……そしてそれだけだった。長閑な光景は、はためく白布の列が足されたところでそう変わりはしない。降伏の色。けして屈しない、とぎらぎらと目を光らせていた上司、に刃向かう気など毛頭無いのだけれど。勝手に湧き上がる思いを止めることは出来なかった。出来たらこんなところには居ない、と思う反面、出来ないからここまで来てしまった、とも思う。乃梨子の不器用な気遣いが、逆に私を後押しして。



乾きかけた一枚のよじれを直す。もう一度会いたい、でもここには来ないで欲しい。私はあなたにこれを巻きたくなんてない。



ラジオが雑音と共に遥か遠くの地名を告げた。高い高い空と同じくらい隔たりのある場所に彼女はきっといないことだけのために、私は神に感謝した。






















--------------------------------------------------------------------------------------






13.




走っていた。どこまでもどこまでも走っていかなければならない気がした。息はもうすっかりあがっていて、足はもつれては前へと押し出されていく。本能? そんなもの信じてはいなかった。生まれながらにして持つ性格だとか、特徴だとか、分析はもううんざりだった。首を振った途端、ひゅっ、と目の前が白くなり、今度こそもつれきった足は私を道の真ん中に押し倒す。咄嗟についた手。まず耳を塞ぎなさい、とぱっとしない国語教師が朝礼で示していた訓戒なんか守る暇はなかった。細かな石で擦られた手の平の熱さが、ひきつれた心臓と一緒に私を燃やしていた。

ごうごうと吼えるかのような爆音は意外に呆気なく去っていった。真っ昼間の田舎道は、それからまたいつもの音を取り戻す。耳鳴りよりもそれらが大きくやかましくなる頃漸く私は起き上がった。擦りむいた膝小僧の様子を見て、ほんのちょっと滲んだ赤に眉をしかめて、無意味なくらいゆっくりと立ち上がる。



「ついてないなぁ」



見逃してもらえたのはとてつもなく幸運だったのだと知っていながら、呟く。平和のための戦いだ、と熱弁していた禿頭の軍人は、宣戦と同時に隣国侵入への指揮を取った。熱狂に流され私も歓声を送った先の第二師団は、今頃どこで抗っているのだろうか。最初ばっかり威勢がいいんだから。かの敵国の王女の一笑に、煽られもせず納得してしまった時点で勝負はとうに決まっているのだ。

令ちゃんのところへ行くはずの体は、もうちっとも動いてはくれなかった。夕方にはまだ早い太陽の高さが、木陰を小さくまとめてしまう。伝う汗が、生ぬるかったことに安堵した。同じような温度の麦茶を流し込む。どうせあの飛行機のせいで今日の鉄道は動きやしない。投げやりに思い息を吐く。



迎えに行くのに、と笑う令ちゃんの声は殆ど変わらなかったけれど、でも確かに変わってしまっていた。私たちの外側にある何かを、見つけてしまった色。深くなった、のかもしれないけれど、私は嫌だった。私の知らない部分が彼女にあるというのが、たまらなく嫌だった。



だから頑張ったのに。ぼんやりと道の先を見つめる。真っ直ぐな、隠れるところもそう多くはない砂利の道。絶対通っちゃ駄目だよ、なんていうから。近道したくなるんじゃない。八つ当たりしようとした彼女は3ヶ月前の軍服姿だ。全然似合ってなかった。分かってたけど、笑ってしまった。



最後に見たのと同じ格好の令ちゃんは、遥か遠くから段々大きくなる。まるで走り続けなければならないかのような様子がおかしくて、私はやっぱり笑ってしまう。

じんじんとする四肢はまばらな葉桜の模様に染め抜かれている。束の間の平和を、その錯覚を、私はやっと有り難いと思う。

じんわりと、傷口が痛み出してきたけれど、私は小さく笑って手を振った。



優しい令ちゃんの、久しぶりの笑顔を、独占するために。






















--------------------------------------------------------------------------------------






14.




大丈夫、大丈夫。ぶつぶつと唱えて緊張を紛らわせて、機体に乗り込んだのはもうずっと前の話。馬鹿丁寧に人という字を手の平に描いて震えていた同僚は、あれから何ヶ月か後に墜落した。私は生きている。大丈夫、と呟いて目を瞑って志摩子さんの姿を思い浮かべただけで平常心に戻れた私。一兵卒なんて言ってみれば捨て駒だ、けれどそんな度胸のせいなのかここの部隊長直属の補佐に随分と気に入られたせいなのか、私は異例とも言える早さで昇進している。らしい。よく分からないのは普通とやらを知らないからで、先輩や同期からの嫌がらせの陰湿さを思えば納得もできる気がする。別にどうってことない。腹が立っても、志摩子さんのことをちょっと考えて、今度会いに行く日の予定でも立ててみれば、それで収まる。実際私は呆れるほど単細胞なのだ。大胆だの勇敢だの、物は言い様でただ繊細さが足りないだけ。飛行機乗りって奴はどうしてこう心の芯まで線の細いのが多いんだろう。確かに身軽だけれど、吹けば飛んでいってしまいそうな奴ら。



手持ちぶさたに眺めていた雑誌を投げ出して、痺れかけた手をぐるぐると回す。上昇、旋回、追跡、墜落。ありふれた毎日。明日もまた飛ぶ。もうすぐ異動があるという噂もある。何にしろ、珍しいことではない。


お前また昇進らしいぜー? と下卑た笑いを飛ばされた昨日。虚か実かなど彼自身にも分かっていないだろうが、それが本当なら、またひとつ負け戦に近づいただけの話だ。志願兵あがりのパイロットに大量の給料を渡す理由なんて滅多にあるものではないのだ。少なくとも私ならしない。



どうせ墜ちるなら、志摩子さんの近くに墜ちたいなあ。



迷惑をかけたくない、と思うのと同じだけ強く、思う。負ける気はない。空に上がったら操縦士は思考まで機に組み込まれる。地上で彼女のことをいくら考えてもだから、問題はない。
あげっぱなしでやっぱり痺れてきた両手をぱたりと落とす。絡みつくように胸の上に組まれた拳。



来週こそは、休み取れて志摩子さんに会いに行けるかなあ。



そんなことを思いつつぎゅっと握った。























--------------------------------------------------------------------------------------






15.





誘われて、惑わされて。



理由が必要? 彼女は笑う。
闇には溶け込まない金の髪、獰猛に光る瞳。あてのない私、あてのない彼女。ふたりが揃って、一体何になろう?


腕力は彼女がまさった。口喧嘩は理不尽な方に軍配があがる。都合のいいところを結論にする、飄々と掠め逃げてゆく。動けない私を残して。彼女が必要なのだと錯覚をさせる。


良いじゃない、嫌いじゃなければ


嫌われてるのも面白いかな。
唄うように、月の下で。汚いアスファルト、そそり立つ壁、剥き出しの鉄骨。だけどこの世の終わりにはまだ遠い。


ほら、おいでよ


イニシアチブは自明のものだと言いたげに。突き出された手が余りに白くて私は目を奪われる。捕らえられたとしたら、きっとこの時。


……名前は?



『セイ』



耳に残った。























--------------------------------------------------------------------------------------






16.




……着いたよ


ぐいぐいと手を引っ張られて、よく分からない道をただ走った。転ばないようにするのが精一杯、まろびつつ、擦り傷をたくさん作り、道程を記憶しようなんて考えはすぐに頭から追いやられてしまった。反射で何かの死体を避け、コールタールの水溜まりを飛び越えて。そうして周りが闇ばかりになった頃止まった目の前の家は意外にも綺麗だった。上中下で言えば間違いなく下だけれども、ちゃんと一軒の家だった。


……何してんの


足が笑い崩れ落ちそうになる私を見下す少女。長い髪から覗く色素の薄い瞳の冷たさ。のろのろと扉に手をかけようとすれば鼻で笑われる。ついと身体が割り込まれ、左腕が腰に回されたと思ったら勢い良く放り投げられた。


きゃあっ!?


ふわりと一瞬感じた、セイ、の香りが意外に甘くて、だけどそんなことをじっくり考える暇もなく。かたいベッドの縁に腰をぶつけた私は本能的に後ずさる。奥の方へよじのぼったとも言えるかもしれない。
顔に影が落ちスプリングがぎしりと嫌な音を立てた。





















--------------------------------------------------------------------------------------






17.




あの、セイ!

ん?


無表情と不機嫌の中間くらい、な姿。明るい声はどうみても無理矢理絞り出されている。私は彼女を何も知らない、知らないけれど。

諦めて目を閉じる。こうなったのも自分の所為。あの瞳を私は見つけてしまったから、もうどうしようもないのだ。理性をいくら磨いても、結局直感には勝てない。だからきっと、私はセイを拒めない。


目に何かが当たる。最初くらい彼女の硝子玉のような煌めきを見ていたかったな。わがままな自分を頭の中で笑えばそっと押し当てられる唇。
前戯というには余りに温い。


……おやすみ

え、


素っ気なく離されたのはどうやらセイの手の平だったらしい。ぎしぎしと窮屈に身体を動かす音、それから呆気なく静寂が訪れる。
動けなかった。彼女に一瞬でも押さえられてしまったら、それに抗うことなどできそうになかった。


不自然な体勢に、ほんのり暖かい存在に、焦ったけれど身体に蓄積された疲労は私をあっという間に闇に落とす。
久しぶりに、悪夢を見なかった。























--------------------------------------------------------------------------------------






18.



「だから、この子を下につけるって言ってるの」


「スパイだったら、私もそれだけの目しかなかったってことね」


強い口調でやりあう江利子さまは何だかとても格好良かった。





「世の中の男どもなんて馬鹿ばっかり」


ぶつぶつと吐き捨てながら、部屋で立ち竦んでいた私を見とめ、途端笑顔になる江利子さま。ぎこちなく笑い返すと噴き出してお腹を抱えられた。やっぱり素敵だわ、なんて囁かれて硬直する。私の頬を撫でた江利子さまはふと真顔になって。


「脳が足りない上層部に、そもそも脳みそがないんじゃないかっていう一般大衆とかね。反吐が出るわ」


江利子さまは本当に退屈そうに言い切られる。私は上司の非難の時点で心拍数は上がりっぱなしの挙動不審状態なのに。
私は江利子さまのことを風聞でしか知らないし、江利子さまはそもそも私のことなど何もご存知無いだろう。不安になるのはむしろ普通なんじゃないかと思う。


「だから、」


花が咲いたような笑顔。
ああけれど、この顔を見てしまうと、もう逃げられない。そんな選択肢、与えられないし私のくだらない煩悶もあっけなく取り上げられ捨てられてしまう。


「あなたは、私を楽しませてね?」


意外に可愛らしい花だと思った。不謹慎かもしれないけど、裏のない表情の魅力は、女の子らしさ、とでも言うのだろうか。思わず抱きしめたくなるくらい、素敵だった。


「ぜ、善処します」


声が上ずったのを、どう捉えられたのだろうか。とりあえずは満足そうな顔が見られてほっとする。


「よろしく」


差し出された手を、おずおずと取る。2回目の握手。けれどきっとこれは一種の儀式だ。


「目に見えるものとしては、今度あげるわ」


あなたに似合うものを、と微笑まれた私は、やっぱり愚直に頷くことしか、できなかった。